アメリカ人が日本語で映画を語るブログ

映画の解釈と分析を綴ります。

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10クローバーフィールド・レーン

論理の入門の映画

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ネタバレ注意

 

車の事故の後で、ミシェルはある地下壕(防空壕)の中で、チェーンで壁につながっている状態で起きた。そこに彼女を連れてきた男、ハワードは彼女の命を救って、「世界の終わりだから出られない」と言う。ミシェルが初めに思うことは当然、「この異常な物狂いは私を婦女暴行し殺したがっている」でしょう。それ以外に思い当たる理由はないんじゃない?でもミシェルはチェーンから自身を解放して、その後、ハワードを殺そうとした後にも、ハワードに許された。

 

そのあと、自由に地下壕を歩き回っても大丈夫になった。それで、地下壕にいる一見、全然普通の人に見えるエメットに会う。エメットも、ハワードのように「世界が終わった」と言っている。エメットは誘拐されたわけではなかった。世界の終わりが始まったので、その地下壕に入るため必死に急いで着た。エメットもハワードも、世界の終わりの原因がわからないけど、ハワードが推測している原因は、外国からの核兵器の攻撃、若しくは宇宙人。だから、ハワードはちょっと異常な人かもしれないけど、危なくはないよね。きっと・・・

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この懸念より観客の緊張感が出る。観客は、ミシェルの視点からすべてを経験するから、僕たちが感じる疑念、若しくは安心の気持ちは、ミシェルが感じるものと同じ。ハワードについてどう感じればよいか、ずっと確かではないではない。世界の終わりのことについて、それは、正しいのか、暴力的な物狂いなのか、一体どっちなの?

 

結局、両方であるという事が分かってきた。ハワードが完全に人殺しで、若い女の人を誘拐して親子ごっこが好きな物狂いである、いう事は本当。でも、地球が宇宙人に攻撃されていることも本当。彼は危ない物狂いだから、全てについて間違っている、と言うことでゃない。

 

この映画は、結構良い「人身攻撃」の実例だと思う。「人身攻撃」ということは、どの論理の入門書の中でも見つけられる論理的誤謬(ごびゅう)。この意味は、例えば、二人が論議している時に、AさんはBさんの考えを攻撃する代わりに、Bさんを人として攻撃する、ということ。つまり、「お前が嫌いから、お前は間違っている」とか「お前は悪い人だから、間違っている」。それは、もちろん論理的じゃない。人は特に政治について話している時に、よく、こういう事を言う。

 

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この映画は、めっちゃ極端な「人身攻撃」の実例。ミシェルと観客である僕たちは、「ハワードは悪いの?」若しくは、「ハワードは正しいの?」この二つの疑問について、ずっと思考している。でも、この両方共が実は本当であるということを思いつかなかった。世界が終わったという証拠を見つけたからと言って、安全と思えるってことじゃない。世界が終わっていても、ハワードは、まだミシェルをチェーンで壁に繋ぎ、部屋の鍵もかけ、エメットと触り合うことを禁止にし、ずっと銃を持ち歩き、ミシェルを娘の代わりにさせようとしていた。一つの事柄は、もう一つの事柄を取り消さない。

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例えば、もし君の中学校の1年生の数学の先生が、20年間の間に14人を刺し殺した、ということを今日知ったとしたら、その先生が教えた「数学」は間違っているの?佐藤先生は人の顔を刺すことが好き、ということが今分かったとしたら、もちろん彼の「友達作りのアドバイス」を無視してもいいかもね。でも、その殺人のことがあったから、「二次方程式について嘘ついてた」ってことじゃないよね。